創業半世紀の歩みの中で
●国立で初めて商工業者の団体として誕生した国立町商業協同組合の組合員有志によって、昭和38年8月1日、国立商工振興株式会社が設立されました。
地域、商工業の振興に寄与するという理念を社名とし、大学通りに面した4棟の自社ビルによる賃貸業の運営を通し、各団体への支援、参画など幅広く国立の街づくり活動に関わっております。 (⇒写真は弊社第3ビル)
社史より抜粋・思い出の記・時の流れに乗って
商工振興?第4代 代表取締役 故関 栄一
◎思えば古い歴史を持つ谷保村の一面の山林地帯100坪が大正の末期、箱根土地、堤康二郎氏の手によって開発され国立駅ができ、東京音楽学校、東京商科大学(現一橋大学)を呼び、また国立学院小学校を作り、その他いくつもの学校を招聘して一大学園都市建設が夢見られたのでありますが、時たまたま経済不況に見舞われて土地の分譲が思うにまかせず計画の発展が阻害されてしまいました。
未来の発展を夢見て、私の父喜太郎が大正15年3月25日、国立における商店一号として店を構えましたが、お客さまは開発工事にたずさわる方々で、商う品々は酒、味噌、醤油の他に地下足袋、軍手、土を運ぶモッコ等々でした。そのような状況を経る中で、3年5年と経ち、一般家庭も序々に多くなってまいりました。昭和6年に至り富士見通りを中心に、大学通りも旭通りも含め下宿屋までもいれて国立商栄会なるものが発足されました。その会員数50名が商業活動の発端でありましたが、しかし、我が国が目指しいる大東亜建設のため、満蒙開拓に目がそそがれて国策の趣くところ、商店街発展のために指導育成政策等は返り見られる事はありませんでした。
いわゆる戦前、戦後、商業にたずさわる者すべてが苦労に苦労をを重ねる月日が大変長かったのであります。
昭和20年8月、戦争が終結しましたが日本国の弊害の回復に大変な時間を必要といたしました。そうした苦労の中で22年に商店街発展策の一つとして富士見通り商店街の街路灯建設を皮切りに、旭通り、大学通りという具合に地域商店街発展策が高まってまいりました。しばらく時をへて27年に国立商工連絡会が組織されはじめて全町的な組織を作り、31年には国立市商業協同組合へと移行してまいりました。
昭和35年に至って、国立市富士見台に大規模な公団住宅が建設されるという
話を聴き入るに及んで、やがてそこに移り住んで来られる大勢のお客さまを対象に、その至近距離に大市場を建設してお客さまの便利と商売の繁栄を願って、早速、国立商業協同組合が準備を開始いたしました。
先ず必要な土地の取得に奔走して幾つか買収に成功しましたが、最終的に大きく一つにまとめなければなりません。そのために土地を買ったり売ったりのこういが組合の定款に抵触する事等もあって、それには定款の一部変更等協議もされましたが、それよりも新たな会社を設立して今まで考え実行してきたものを全部
引き継がせることとして、昭和37年8月に国立商工振興株式会社が生まれたのでありました。
会社は総力をあげて商協の目論見を実現すべく役員こぞって最大限努力を傾注
しましたが、必要な場所に大きく一つにまとめなければならないのですが、それは出来る筈もなく遂に初めの構想は断念せざるを得ませんでした。さりながら、会社はめを転じて国立駅に近い大学通りに注目し、土地や建物の取得に力を注いで貸しビル業に専念してまいったのでありました。思えば様々な苦労を乗り越えて今日の会社があるのです。先人の苦労に感謝し、これから弥栄を祈念し拙文を終わります。
地域、商工業の振興に寄与するという理念を社名とし、大学通りに面した4棟の自社ビルによる賃貸業の運営を通し、各団体への支援、参画など幅広く国立の街づくり活動に関わっております。 (⇒写真は弊社第3ビル)
社史より抜粋・思い出の記・時の流れに乗って
商工振興?第4代 代表取締役 故関 栄一
◎思えば古い歴史を持つ谷保村の一面の山林地帯100坪が大正の末期、箱根土地、堤康二郎氏の手によって開発され国立駅ができ、東京音楽学校、東京商科大学(現一橋大学)を呼び、また国立学院小学校を作り、その他いくつもの学校を招聘して一大学園都市建設が夢見られたのでありますが、時たまたま経済不況に見舞われて土地の分譲が思うにまかせず計画の発展が阻害されてしまいました。
未来の発展を夢見て、私の父喜太郎が大正15年3月25日、国立における商店一号として店を構えましたが、お客さまは開発工事にたずさわる方々で、商う品々は酒、味噌、醤油の他に地下足袋、軍手、土を運ぶモッコ等々でした。そのような状況を経る中で、3年5年と経ち、一般家庭も序々に多くなってまいりました。昭和6年に至り富士見通りを中心に、大学通りも旭通りも含め下宿屋までもいれて国立商栄会なるものが発足されました。その会員数50名が商業活動の発端でありましたが、しかし、我が国が目指しいる大東亜建設のため、満蒙開拓に目がそそがれて国策の趣くところ、商店街発展のために指導育成政策等は返り見られる事はありませんでした。
いわゆる戦前、戦後、商業にたずさわる者すべてが苦労に苦労をを重ねる月日が大変長かったのであります。
昭和20年8月、戦争が終結しましたが日本国の弊害の回復に大変な時間を必要といたしました。そうした苦労の中で22年に商店街発展策の一つとして富士見通り商店街の街路灯建設を皮切りに、旭通り、大学通りという具合に地域商店街発展策が高まってまいりました。しばらく時をへて27年に国立商工連絡会が組織されはじめて全町的な組織を作り、31年には国立市商業協同組合へと移行してまいりました。
昭和35年に至って、国立市富士見台に大規模な公団住宅が建設されるという
話を聴き入るに及んで、やがてそこに移り住んで来られる大勢のお客さまを対象に、その至近距離に大市場を建設してお客さまの便利と商売の繁栄を願って、早速、国立商業協同組合が準備を開始いたしました。
先ず必要な土地の取得に奔走して幾つか買収に成功しましたが、最終的に大きく一つにまとめなければなりません。そのために土地を買ったり売ったりのこういが組合の定款に抵触する事等もあって、それには定款の一部変更等協議もされましたが、それよりも新たな会社を設立して今まで考え実行してきたものを全部
引き継がせることとして、昭和37年8月に国立商工振興株式会社が生まれたのでありました。
会社は総力をあげて商協の目論見を実現すべく役員こぞって最大限努力を傾注
しましたが、必要な場所に大きく一つにまとめなければならないのですが、それは出来る筈もなく遂に初めの構想は断念せざるを得ませんでした。さりながら、会社はめを転じて国立駅に近い大学通りに注目し、土地や建物の取得に力を注いで貸しビル業に専念してまいったのでありました。思えば様々な苦労を乗り越えて今日の会社があるのです。先人の苦労に感謝し、これから弥栄を祈念し拙文を終わります。